スタートアップの経営者の中には、「J-KISS」という資金調達手法を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。一方で、J-KISSは具体的にどのような資金調達なのか、融資や一般的な増資、転換社債などとの違いやどのような手続きが必要なのか、についてはよくわからないという方もいるかと思います。本記事では、J-KISS型新株予約権の概要、他の資金調達手段と比較したメリット・デメリット、発行手続きの流れや登記申請のポイントについて解説します。J-KISS型新株予約権とは?J-KISSは新株予約権を用いた資金調達手法の一つであり、「J-KISS型新株予約権」と呼ばれています。スタートアップ企業における資金調達方法のひとつJ-KISS型新株予約権(以下、「J-KISS」)は、主にシード期のスタートアップを対象とした新株予約権を利用した簡易な資金調達手法です。米国シリコンバレーで活用されていた「Keep It Simple Security(KISS)」をもとに国内の法律事務所が設計、ベンチャーキャピタルの500 Startups Japan(現在のCoral Capital)がその手法や必要書類などを無償に公開したことで認知が広がりました。また、経済産業省からは「コンバーティブル投資手段 活用ガイドライン」が公開されており、日本においても活用例が増えています。J-KISSの特徴は、定型化されたフォーマットで迅速に資金調達を完了させることにあります。スタートアップは短期間で資金調達を完了する必要がある一方、投資家にとってシード期のスタートアップは企業価値の評価(バリュエーション)を厳密に行うことが困難な場合があり、投資実行の意思決定や投資条件の交渉に時間がかかることもありうるため、投資条件が定型化されているJ-KISSは、シード期のスタートアップに適した資金調達手法とされています。J-KISSの基本的な仕組みJ-KISSは「次回の資金調達時に発行される株式に転換されることが予定された新株予約権」ということができます。スタートアップは新株予約権を発行し、これを投資家が有償で引き受けることで資金調達を行います。投資家は、J-KISSの発行要項において定められた一定の資金調達(適格ファイナンス。例えばシリーズAファイナンスなど)が行われたタイミングで、引き受けた新株予約権を行使することで株式を手に入れることになります。そのため、J-KISSは広い意味では増資と考えることもできます。J-KISSの行使により取得する株式の数は、J-KISSの取得時に払い込まれた金額を「転換価額」で除して得られた数となります。ここでいう「転換価額」は「ディスカウント」と「バリュエーション・キャップ」のどちらか低い方を基準に決定されます。「ディスカウント」は、適格ファイナンスにおける株価に対して、発行要項で定められた割引率を乗じて得られた額を指します。また、「バリュエーション・キャップ」は、転換価額に一定の上限を設ける仕組みです。これらにより、J-KISSで投資した投資家は、適格ファイナンス時の株価にかかわらず、一定の価格以下で株式を取得することができ、先に投資をしてリスクを取った分、適格ファイナンスの投資家より有利な条件となります。J-KISS型新株予約権のメリット・デメリットJ-KISSを他の金調達手段と比較した場合のメリット・デメリットについて解説します。融資と比較した増資(第三者割当増資)のメリット・デメリット融資は銀行等の金融機関から事業資金を借りるために返還義務があり、会計処理では借入金として負債に計上されます。これに対して、第三者割当増資により調達した資金には返済義務がなく、会計処理では純資産の部に計上されるため、キャッシュフローとバランスシートの面から融資と比べてメリットがあります。一方で、増資により新たに株式が発行されると、経営者等の持ち株比率が低下するとともに、新たな株主に対する説明責任や経営に対する一定の制約を受けることがあります。これが融資と比較した場合のデメリットとなります。なお、スタートアップへの融資は、政府系をはじめとする一部の金融機関において実行されていますが、特にシード期のスタートアップには返済余力や信用力等の面からハードルが高い面もあるようです。また、従前は、転換社債型新株予約権付社債(コンバーチブルボンド)などが活用されていましたが、融資と同様に返済義務があり、会計処理で負債に計上される点において、スタートアップにとってデメリットともなりうる面があるため、昨今では、J-KISSの活用場面の方が、多くなってきました。増資(第三者割当増資)と比較したJ-KISSのメリットJ-KISSは、第三者割当増資と比べ、①早く資金調達ができる、②投資の詳細条件を先送りできる、③コストが低い、といったメリットがあります。増資(第三者割当増資)では、投資家がスタートアップの財務状況や事業計画の妥当性等を精査(デューデリジェンス)し、評価した企業価値から株価を算定するとともに、投資契約に盛り込む条件を検討します。その後、投資家とスタートアップ間での交渉を経て投資が決定されます。これに対して、J-KISSは、契約書も公開されたテンプレートを使用することが一般的であること、投資者と発行会社との間で調整するべき事項も限定されていることから、スピーディな投資実行の実現が可能となる点がメリットとして上げられます。また、投資契約書作成時の法務レビューなどにそれほどコストがかからず、登記申請時の登録免許税も一定となるため、コスト面でのメリットがあります。なお、登録免許税は、増資の場合は増加する資本金額の0.7%が発生するのに対し、J-KISSの場合は一律9万円となります。増資(第三者割当増資)と比較したJ-KISSのデメリット一方、J-KISSには、①スキームの複雑さ、②株式の希薄化の可能性、といったデメリットがあります。J-KISSには上記で記載したメリットがある反面、融資や増資と比較して、適格ファイナンス時における転換条件の設定などスキームが複雑となっています。J-KISSの発行時点では株価等の詳細条件を決定する必要はありませんが、経営者自身がスキームを十分に理解した上で、今後の資本政策を見据えて、ディスカウントやバリュエーション・キャップ等の条件交渉を行うことが重要となります。また、J-KISSは、適格ファイナンスでの資金調達時のバリュエーションを基にして、株式に転換されます。そのため、J-KISS発行後にスタートアップの事業が順調に進捗していない場合や経済環境の悪化等により、適格ファイナンス時のバリュエーションが低い状態で資金調達をしなければならないケースでは、適格ファイナンス時の株価からさらにディスカウントされた価格でJ-KISSが株式に転換される可能性があります。これにより、経営者等の株式シェアが当初の想定よりも低くなるリスクがあり、この点もデメリットと言えます。J-KISS型新株予約権の発行手続きJ-KISSを発行するために必要な手続きの流れとポイントについて具体的に説明します。なお、J-KISSによる資金調達を主に行うシードステージ・アーリーステージの企業では取締役会が設置されていないことが多いと思いますので、以下では、取締役会非設置の会社を念頭に置いて解説します。大きく分けて3つのステップがあるJ-KISSを発行するための手続きは、①株主総会での決議、②契約の締結・払い込み、③法務局への登記申請の3つのステップに分かれます。①株主総会での決議新株予約権の発行は原則として株主総会の特別決議となるため、株主総会を開催した上で、株主の2/3以上の賛成が必要となります。決議に必要な事項は以下の通りです。募集新株予約権の内容及び数募集新株予約権と引換えに金銭の払込みを要しないこととする場合にはその旨募集新株予約権と引換えに金銭の払込みを要することとする場合には、募集新株予約権の払込金額又はその算定方法募集新株予約権を割り当てる日募集新株予約権と引換えにする金銭の払込みの期日を定めるときは、その期日株主総会の終了後には、決議した事項を記載した株主総会議事録を作成します。②契約の締結・払い込み株主総会で決議した内容をもとに投資家と投資契約書を締結します。投資契約書のひな形はCoral CapitalがHP上で公開しており、ダウンロードをして利用することができます。参考リンク:https://coralcap.co/j-kiss/投資契約の締結後に、契約書で定められた払込期日までに投資家より払込を受けます。③法務局への登記申請J-KISS発行の変更登記は、会社法に基づき2週間以内に法務局へ申請する必要があります。登記すべき事項は主に株主総会で決議した事項になります。登記には登記申請書と添付書類の提出、前述の登録免許税の納付が必要です。登記の申請方法は法務局の窓口への持参に加えて、郵送やオンライン申請も可能です。自分で手続きすることも可能だが十分な検討が必要 J-KISSの投資契約書のひな形は公開されており、これをもとに投資家と条件を交渉した上で、契約を締結することができます。また、登記申請書の記載例も法務局等のWebサイトで公開されており、これを参考に登記の準備を進めることは可能です。ファイナンスやそれに関連する知識を十分に持った経営者であれば自分で交渉や手続きを行うことができるかもしれません。しかしながら、ここまで触れてきたとおりJ-KISSのスキームは複雑であり、将来の資本政策等に大きな影響を及ばす可能性もあります。また、地方の法務局などでは発行実務に不慣れなケースもあり、前提を示しながら折衝が必要な場合もあります。また、スタートアップが株式譲渡制限会社かそうではないか、取締役会設置会社かそうではないかなど、スタートアップの会社の状況により発行手続が異なります。このような点から、J-KISSの発行は、弁護士や司法書士、会計士等の専門家のアドバイスを受けることも有用です。J-KISS型新株予約権の登記に必要な書類・ひな形J-KISS発行に伴う変更登記に必要となる書類を説明し、利用できるひな形をご紹介します。J-KISS型新株予約権発行による変更登記に必要な書類J-KISS発行による変更登記には、①登記申請書、②株主総会議事録、③新株予約権の申込書、④払込を証する書面、⑤株主リスト、⑥委任状(必要に応じて)が必要となります。①登記申請書登記の事由、登記すべき事項等を記載した申請書です。②株主総会議事録株主総会で決議された事項を記載した書類です。③新株予約権の申込書新株予約権の割当てを受ける投資家が新株予約権を発行するスタートアップに提出する書類です。④払込を証する書面投資家が新株予約権の取得のために振込んだ金額に関する証明書です。通帳の写し等を用いてスタートアップが作成します。⑤株主リスト株主の氏名又は名称、住所及び議決権数等を証する書面です。⑥委任状登記申請に関する手続を司法書士に委任する場合は委任状が必要となります。法務局に提出する書類の作成や登記申請の代理は司法書士の独占業務であり、他の専門家へ委任することはできません。登記申請に必要なひな形(テンプレート)上記で記載した通り、J-KISS発行の変更登記に必要な申請書のひな形は法務局にHPで公開されています。参考リンク:https://houmukyoku.moj.go.jp/homu/content/001389314.pdfJ-KISS型新株予約権の検討は慎重にJ-KISSは融資や増資(第三者割当増資)と比較すると、シード期のスタートアップにとって、資金を調達をする上で様々なメリットがあります。一方で、将来的な資本政策等に大きな影響を及ぶ可能性や手続き面での複雑さなどもあります。そのため、スキームや手続きを十分に理解した上で慎重に進めることが重要であるとともに、弁護士や司法書士、会計士等の専門家のアドバイスを受けることを検討することも重要です。